診療所と大病院のあいだで揺れる患者──紹介の“行間”に潜む医師の本音

日本の医療は「地域完結型医療」「役割分担」「医療連携」がキーワードとして語られて久しい。
しかし現場に身を置いていると、その理念の裏にある“行間”が、患者を静かに疲弊させているのを感じる。

今日、総合病院の耳鼻科を受診した。
数ヶ月前にもかかっていて、そのときは症状も落ち着いていたため「診療所で経過観察してください」と言われ、一度役割が診療所へと戻った。

その後、診療所で再び診察を受け、検査をするとわずかだが病変が見つかり、
診療所は「これは診られない」と判断して再び病院へ紹介状を書いた。

そして今日、病院で検査を受けた結果は
「今のところ心配ない。診療所で経過観察してよい」
というものだった。

頭では理解している。
診療所では行えない高度な検査がある。
病院は重症患者を優先したい。
紹介は悪いことではない。
安全のための仕組みなのだ。

だが、患者として往復する身からすると、
“この揺さぶられる感じ” は決して小さくない。

■ 大病院の医師がこぼした、ほんの一言

診察の時間に、私は経緯を丁寧に説明した。
診療所 → 病院(初回) → 診療所 → 病院(今回)
という往復があったことを。

すると病院医師が、少しだけ声を落として言った。

「この先生は、すぐ紹介するタイプだね」

たった一言だった。
けれどその後ろにある医師の本音が、ふっと見えた気がした。

  • 診療所でフォローできるレベルなのに病院に回してくる
  • 軽症の患者で外来枠が圧迫される
  • しかし角を立てないよう、患者にはやんわり伝える

医師は本音を直接口にしない。
代わりに“行間”で語る。

その空気を感じ取った瞬間、
以前相談したある出来事を思い出した。

■ 「診療所にも反省してもらわないと」──紹介状に滲む医師の言葉

以前、大学病院からの紹介状を紹介先から見せてもらったとき、
そこにはさりげなく、しかし強いニュアンスを持った一文があった。

「診療所にも反省してもらう必要があります。」

もちろん、こんなストレートな書き方はしていない。
医師のことばはもっと婉曲だ。

  • 「適切な時期にご紹介いただければ」
  • 「必要時には早めにご相談いただけると幸いです」

こうした一文に、“やんわりとした批判”が込められている。
医師同士はその行間を読む。
医学部の六年間で鍛えられた、特有の文脈だ。

紹介が遅すぎる医師には
「もっと早く送ってほしい」
紹介が早すぎる医師には
「またこのレベルで?」

そうした感情を、医師は直接言わず、文章の角度で伝える。

■ 患者はどこに立たされているのか

診療所の本音もわかる。

  • 設備的な限界
  • 診断責任の重圧
  • 訴訟への恐れ
  • 少しでも異常があれば「大病院にお願いしたい」という心理

病院の本音もわかる。

  • 外来は重症者に時間を割きたい
  • 軽症患者で枠が埋まると本来の医療ができない
  • 「診療所で診られる範囲のものは戻してほしい」

両者の“安全のための判断”が、
結果として 患者の往復 を生んでしまう。

診療所 → 病院 → 診療所 → 病院
主治医がどこなのかわからないまま、
医師それぞれの“判断の揺れ幅”に揺さぶられる。

医療者の論理、仕組みの論理は理解できる。
でも、その隙間にいる患者の身体と心は、
案外消耗している。

■ 医療連携の本当の課題は「役割」ではなく「温度差」

医療システムは“役割分担”をうたう。
だが現場で起きているのは、
役割そのものよりも、医師同士の“温度差”だ。

  • 紹介の基準の違い
  • 診断責任の重さの感じ方の違い
  • リスクに対する耐性の違い
  • 患者にどこまで寄り添うかの違い

温度差が生む微妙な摩擦が、
患者の動線にそのまま表れる。

今日の病院医師の一言、
紹介状の“反省”という行間、
それらはすべて同じ構造の上に乗っている。

■ 結論:医療者の論理は正しくても、患者の疲労は本物だ

私は今日、久しぶりにその縮図を体験した。
そして改めて思った。

診療所も、病院も、それぞれの立場で「正しいこと」をしている。
だがその“正しさ”のすき間で、
患者は静かに揺られ続けている。

医療が変わるというのは、
役割分担の再構築だけではなく、
その揺れをどう埋めるか の議論が必要なのだと思う。

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