タグ: 医療の構造

  • 今日、医療の構造を体で理解した一日

    今日は、ただの通院の日ではなかった。

    朝から夜まで、いくつもの医療機関を行き来しながら、

    「医療はこうやって回っているのか」という構造を、

    頭ではなく、体で理解した一日だった。

    きっかけは、ひとつの疑問だった

    発端は単純だった。

    自分が慢性的に抱えている喉の違和感と、

    血圧の薬(ARB)との関係が、本当に無関係なのか。

    ARBを少し休薬してみると、

    喉の調子がわずかに良くなった気がした。

    一方で、血圧は安定しているものの、上昇傾向も見える。

    「血圧管理は必要だ。でも、薬の相性は考え直す余地があるのではないか」

    この疑問を整理するために、

    今日は耳鼻科と内科、両方を受診することにした。

    大病院の耳鼻科で感じた“壁”

    最初に向かったのは、総合病院の耳鼻咽喉科。

    事前に、経緯をまとめたメモを書いて持参した。

    医師は忙しい。

    それは分かっている。

    だからこそ、診察前に目を通してもらえたら、

    無駄な説明を省けると思った。

    だが、現実はそう簡単ではなかった。

    受付では

    「患者さんからのメモはスキャンできない」

    「看護師に相談します」

    と待たされ、結局あきらめることになった。

    制度としては正しい。

    でも、配慮としては噛み合わない。

    ここで感じたのは、

    誰かが悪いという話ではなく、

    大病院は“例外を許容しない構造”で動いているという事実だった。

    それでも診察は、医学的には妥当だった

    耳鼻科の診察では、内視鏡検査を受けた。

    「急性の耳鼻科的問題は否定的」

    フォローは4か月後。

    この判断自体は、医学的に妥当だと思った。

    今すぐ何かをする必要はない。

    ただ、環境や背景を調整しながら経過を見る段階だ。

    ここで一つ、大事な前提がそろった。

    少なくとも、喉の構造的な問題が主因ではないという確認だ。

    紙一枚で、医療の風景が変わる

    午後、内科の診療所へ向かった。

    こちらは紙カルテの診療所。

    耳鼻科での結果と、

    ARB休薬後の経過をまとめたメモを受付で渡した。

    正直、

    「受け取ってもらえないかもしれない」

    とも思っていた。

    でも、あっさり受け取ってもらえた。

    診察室に入ると、

    医師はすでに状況を把握していた。

    説明を一からする必要はなかった。

    話は最初から「判断の段階」に入った。

    この瞬間、はっきり分かった。

    紙カルテか電子カルテか、ではない。

    “情報がどう流れるか”が、診療の質を左右する。

    薬を変える、という合意

    医師から聞かれた。

    「なぜ以前、Ca拮抗薬からARBに変えたんですか?」

    正直に答えた。

    「前の先生が、こっちの方が効くと言われて変更しました」

    医師は少し考え込むように「うーん」と言った。

    否定ではない。

    再評価だ。

    そして、

    血圧管理は継続しつつ、

    薬の変更を行う方針になった。

    ここで、最初に自分が望んでいた形に、ようやく辿り着いた。

    一方的に指示されるのでもなく、

    感情的に訴えるのでもなく、

    情報を共有した上で、一緒に決める。

    これが、医療系の教科書によく書いてあるEBM+SDMなのだと思う。

    医療は、人ではなく構造で決まる

    今日一日を振り返って、

    医師が冷たかったわけでも、

    受付が不親切だったわけでもないと感じている。

    違いを生んだのは、構造だった。

    大病院か診療所か 電子カルテか紙カルテか 処理の場か、判断の場か

    同じ医療でも、設計が違えば体験はまったく変わる。

    そして、

    「患者と一緒に治療を考える医療」は、

    時間と余白がある場でないと成立しにくい。

    これは、誰かの怠慢ではない。

    今の医療が抱えている静かな歪みだと思う。

    今日という一日

    今日は、正直、疲れた。

    体調のこと、医療のこと、構造のこと。

    考えることが多すぎた。

    でも同時に、

    無駄な一日ではなかったとも思う。

    自分の体のことを、

    自分の言葉で整理し、

    医療とどう向き合うかを、

    少しだけ前に進めた一日だった。

    こういう一日が積み重なって、

    医療は変わるのかもしれないし、

    変わらないのかもしれない。

    ただ、少なくとも今日は、

    「考えることをやめなかった」。

    それだけで、十分だった気がする。

  • 診療所で「診られない」と言われた日

    ――医療と患者のすれ違いについて考えたこと

    今日は、耳鼻咽喉科の診療所を受診した。

    喉の違和感で、これまで地域の基幹病院に一年ほど通ってきた。
    異常が見つかり、経過を追い、いったん消失したことから、
    「今後は診療所でフォローアップでよい」という判断になり、紹介状を書いてもらった。

    その流れで診療所を受診し、今後は継続的にフォローアップしてもらう予定だった。
    しかし、2回目の診察(1か月後)で再度異常が見つかり、
    総合病院への紹介状を書いてもらうことになった。

    改めて総合病院を受診したところ、
    「これまで見ていた症状の再燃であり、今後は診療所でフォローアップでよい」
    との判断となり、再び診療所への紹介状が書かれた。
    そして今日、その診療所を再受診した。

    結論から言うと、フォローアップは引き受けてもらえなかった。
    「うちでは生検の設備がない」「フォローはできない」「もう一度総合病院で診てもらった方がいい」
    そういう説明だった。

    こちらとしては、治療を求めていたわけでも、生検を強く希望していたわけでもない。
    ファイバーで定期的に観察してもらい、変化があれば再度病院に戻る。
    その程度のフォローアップを想定していた。

    しかし、話は噛み合わなかった。

    ファイバーで見てほしいと伝えると「患者さんの負担になる」と言われ、
    生検は外注という形もあるのでは、と話すと「できない」と返された。
    次第に、説明ではなく押し切るような空気になり、こちらも感情的になりかけた。

    結局、その日の所見を紹介状に書いてもらうことになり、ファイバーは実施された。
    説明も受け、自分のスマホに記録用として写真も撮らせてもらった。
    それで診察は終わった。

    その後も、受付や看護師とのやり取りが続いた。
    紹介状の宛名、会計の扱い、紹介状の受け取り時に再診扱いになるかどうか。
    ひとつひとつは小さなことだが、全体としてどこかちぐはぐで、噛み合わない感覚が残った。

    特に印象に残ったのは、診察が終わった後のタイミングで、「善意の確認」があったことだ。
    医療の場では、ときに「善意の確認」が
    本人にとっては負担になることがある。
    この日も、そう感じる場面があった。


    聞くこと自体が悪いわけではない。
    ただ、そのタイミングで、その文脈で聞かれる理由が分からず、
    答えることで自分に不利になる予感だけがして、答えなかった。

    14時に来院し、15時前には会計を終えて帰宅した。
    時間にすれば短い出来事だ。
    でも、疲労感はかなり大きかった。


    帰宅してから、今日のやり取りを振り返り、考えた。

    まず気づいたのは、「耳鼻咽喉科」という標榜と、実際の診療内容のズレだった。
    多くの診療所で日常的に診ているのは、耳と鼻が中心だ。
    喉といっても、口を開けて扁桃や咽頭を見るところまでが大半で、
    喉頭ファイバーで声帯や下咽頭を継続的にフォローする体制は、実はかなり限られている。ただファイバースコープの設備はある。

    「耳鼻咽喉科なら喉も診られる」と患者は思う。
    でも現実には、「喉頭を日常的に診る設計」になっていない診療所も多い。

    そう考えると、今回の出来事は、誰か一人が悪いという話ではないのかもしれない。

    医師は、自分の引き受けられる責任の範囲を守ろうとした。
    看護師や受付スタッフも、それぞれの役割の中で対応していた。
    ただ、その結果として、患者である自分には「なぜそうなるのか」が十分に説明されず、
    「診られない」という結論だけが残った。

    ここで、もう一つの気づきがあった。

    医療者は、意識していようがいまいが、患者をコントロールする方向に動く。
    それは悪意ではなく、命と健康を扱う以上、リスクを管理しようとする自然な動きだと思う。

    ただ、その構造が見えないまま体験すると、人は簡単に医療不信に傾く。
    なぜ断られたのか分からない。
    なぜ話が噛み合わないのか分からない。
    その積み重ねが、「医師は信用できない」という感情に変わっていく。

    医療の知識がない人ほど、そうなりやすいだろう。

    自分自身は、今回の体験で医療不信になったわけではない。
    むしろ、医療の役割分担や限界を、あらためて理解した気がしている。

    診療所は、軽症で定型的な対応に最適化された場所だ。
    薬をもらう、短期で完結する相談をする。
    そういう使い方が合っている。

    一方で、判断がグレーな状態を長期にフォローする医療は、
    最初からそれを引き受ける覚悟と設計のある場所を選ばないと、
    患者も医療者も疲弊する。

    最近、工学部出身の医師や、医師免許を持って起業する人が増えているのも、
    こうした構造的な限界を内側から感じている人が増えた結果なのだと思う。
    臨床だけでは変えられないものを、別のレイヤーから変えようとしているのだろう。

    医師免許が、週に一度の非常勤で生活を支えられるほど強いセーフティネットになっていることも、
    医療を支えている一方で、歪みを生んでいる面がある。
    これは個人の善悪ではなく、制度の話だ。

    結局のところ、今日感じた違和感は、
    「医師が悪い」という話でも、「自分が悪い」という話でもない。

    医療の設計と、患者の期待が、ずれていただけだ。

    そう理解したことで、少し楽になった。

    これからは、医療に多くを期待しすぎず、
    役割を見極めて、必要なときに必要な場所を使う。
    それでいいのだと思う。

    今日は嫌なことも多かったが、
    吐き出して、考えて、ここで一区切りつけたい。